壇洋一ブログ

2020.3.4

我家の史実 朝鮮出兵(碧蹄館の戦い)

 

以前は我家の歴史について書くことがありあしたが、最近新しい事実を歴史家の方から

聞きましたのでお話します。

我家は柳川藩の立花宗茂とその正室のぎんちょ姫とは先祖の時代に縁がありますが、

最近分かったことが、豊臣秀吉の時代、1593年オールジャパンの武将が朝鮮出兵で

朝鮮の今の徳陽区で明軍と戦いました。

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この二度の戦いで柳川藩の武将 小野和泉の余力となり共に壇久右エ門津右衛門が出兵しました。

この戦いは、明軍優勢の時期、平壌奪還の勢いにのり漢城(今のソウル)目指し南下する

提督 李如松率いる約20,000人の明軍を小早川率いる約20,000人の日本軍が迎撃し

打ち破った戦いです。

戦いは逆転勝利しましたが、私の先祖である壇津右衛門は戦死しました。

吉報を知った加藤清正はこの勝利は立花宗茂によるところが大きいと称賛したらしいです。

秀吉の死後、オールジャパンの武将も関ヶ原の戦いで二分されて戦うことになりました。

西軍についた立花宗茂は、城を明け渡し肥後の地に幽閉されます。

壇家の災難も1601年のまだまだ世の中が関ヶ原の戦い後の不穏な空気が漂う中

起こり、お家断絶になりましたが、20年後、立花宗茂の再封により再興しました。

 

肥後では朝鮮出兵の時、明軍に包囲され四面楚歌に陥った加藤清正を、立花宗茂が勇猛果敢に助け

出した事から恩義に感じてくれて柳川藩家臣についても気を使ってくれたと書いてあります。

その後、宗茂は家来を引き連れ流浪の旅に出ますが、徳川家に召し抱えられることになり、最終的には

元の柳川藩に再封されます。

一方、小野 和泉は、加藤清正に登用されますが、立花宗茂の柳川藩再封も知ることなく

62歳で没しました。

それから、約360年の時を経て、脚光を浴びることになったのは、その先祖である

ジョンレノンの奥さんであるオノ.ヨーコ(小野 洋子)のようです。

歴史を探訪するといろいろな人との関りが浮かび上がります。

確かに奥が深いですね~。

 

 

 

 

 

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