壇洋一ブログ

2020.5.13

面の坂の歴史に思うこと……(その1)

最近、走馬灯のように面の坂でのある思いが浮かんできます……。

 

「面の坂の刑」とは、関ヶ原の戦いで西軍についた柳川城主の立花宗茂と正室の
誾千代は、負け戦となり、城を出て、加藤清正の領地である今の荒尾近くの高瀬と
腹赤村に幽閉されることになりますが、立花宗茂と誾千代は領民の信頼も厚く、
幽閉されてからも恩義に感じている私の先祖である大庄屋の壇家と樺島家は、
幾度となく百姓になりすまし往来が少ない山手の関所を超え糧米を運んでいました。
が、ある日、密告だったのかどうかわかりませんが、山川町の松風の関所で
捕らえられました。このことはその日のうちに早馬をだして柳川城に知らせられた。

 

画像 902 画像 904 松風の関所跡
次の日には新たに柳川に入城した東軍の田中吉政の命により、両家の親子は
面の坂で、最も厳しい磔刑と斬首刑に処せられたのですが、この面の坂は
今のみやま市の瀬高町と山川町が接する所にあり、今でも当時とあまり
変わっていないだろうと思われる竹藪の中の獣道です。
Exif_JPEG_PICTURE この狭い道が薩摩街道だったのです。(面の坂)
この事件は1602年(慶長6年)のことですが、それから410年ほど経った
10年ほど前の私の母の命日に、実家に墓参りにいった帰り、私は面の坂の刑場の
正確な場所を知りたくなり、瀬高町のその場所に行きました。

 

車から降りた時、向こうから地元の人には似つかわしくない中年の男性が
やってきました。
刑場を探している私は、面の坂と言う場所はご存じですか?と尋ねたところ、
その人は驚いたように壇さんですか!と言われたのです!
私は、「田中吉政と面の坂の刑」という木村精二書籍を手に持っていて、
彼もその本を読んだから分かったと言われました。

 

彼は母方が樺島家の血筋をひいているそうで、ゴルフの帰りに、私と同じように
面の坂の場所を探しに来たとのことでした。
410年後の現代、私の母の命日に、偶然、樺島と壇が出会うことがあり得るのだるうか?
と不思議で仕方ありませんでしたが、今でもこの出会いは必然であると確信しています。

 

それから二人でこの辺のことに詳しい近くのお年寄りの家に行きました。
暫く待って、80歳くらいのお爺さんが出てきましたので挨拶をして、早速、
面の坂の場所を知っているのか尋ねましたら、
開口一番、壇さんと樺島さんですか!と言われました。
えつ!何で分かるのだろう?と瞬時に思ったのですが、
そのお爺さんの手に、私の本と同じ本が見えたのです。
後で聞いたのですが、その本を読んでいたから閃いたそうです。
そのお爺さんは書籍の著者でもある木村さんを面の坂に案内した唯一の人だったのです。
一度の訪問で古のことを知っている方に会えて幸運でした!
それから、早速、私と樺島さんを面の坂に案内してくれました。

画像 921 画像の中央はお年寄り 右側は樺島さん

面の坂は当時の事件以降、別名、首切り坂やハタモン場とも言われていたそうですで、
当時の薩摩街道が藪の中を走っております。
お爺さんの案内で大まかな刑場も確認するとができ実りある一日でした。
樺島さんとはそれで別れましたが、410年後に、この出会いが会うべくして会った
出会いであったのならば、きっと、また出会うこともあるだろうと思い、
住所や連絡先なども聞きませんでしたが、本の著者を知っているとのことでした
から、木村さんに宜しくお伝えくださいとご伝言をお願いしました。

 

 

 

 

 

Category: 壇洋一ブログ