壇・樺島家の歴史(2)”偶然ではなく必然”
もう10年ほど前になるでしょうか!?
1601年、壇家と樺島家の親子が糧米を旧領主に送る罪で捕らえられ、磔刑と打首で無念の死を
迎えることになりましたが、その場所は今も昔とそれほど変わらない昼までも薄暗い藪の中。
今の瀬高町と山川町の接する面の坂と言う旧薩摩街道の脇の空地(首切り坂)ですが、
私の母の命日にみやま市に行った帰り、その首切り坂を探しに行きましたが場所が特定できず、
そこを歩いている革ジャン姿の人に聞こうと思い声を掛けたのですが、私が片手に持っていた
「小冊子の面の坂の本」をみてすぐさま壇さんですかと聞かれたのです。
驚きです!
何で私の名前が分かったのか聞いたら、彼もこの本を彼も読んでいたらしく、壇・樺島家の事件を
題材に書いた本だったから彼も閃いたそうです。
私も、樺島さんですか!?と声かけたら、思ったとおり樺島家の末裔でした。
母方が樺島家の系列だったそうです。
それから、二人でその場所を探すために、この村のことに詳しい長老の家に行ってたのですが、
そのお年寄りも片手に持った本を見て、壇さん?樺島さん?ですかと尋ねられました。
そのお年寄りは、この本を執筆した木村さんと言う方をその面の坂と首切り坂に
案内した人だったのです。
この時に私は確信しました!
母の命日と、410年後に樺島さんに再会したこと、唯一この場所を知っている
お年寄りに会えたこと、これを偶然として解決できるのだろうか?
いや、このようはことは先祖が仕組んだ必然だったんだろうと思いました。
何で仕組んだのかはわかりませんが…… 。
ですから、樺島さんにまた会つた方がいいようであれば、会うこともあるだろうと思い
連絡先なども聞かず別れました。